移籍初年の1980年、南海では広瀬叔功氏が監督を務めており、上田氏は高い評価を受けた
しかし、翌1981年にはドン・ブレイザー監督が新たに就任し、上田氏は困難な状況に直面することとなった
上田氏は、南海に移籍した際、広瀬監督から「阪神で浮いていることを察知し、来てもらった」と言われ、期待をかけられた
また、南海1年目の1980年には11先発を含む30登板で6勝6敗1セーブという成績を収め、その中には移籍後初勝利も含まれていた
彼は「今までのセ・リーグと違って、パ・リーグのD.H.(指名打者)制ではピッチャーが打席に立たないため、少し楽に感じた」と振り返る
また、「移動やキャンプ地、待遇面については阪神と比べて厳しかった」とも話している
上田氏は新たな環境で全力を尽くし、若い投手たちをリリーフとして支える役割を果たした
しかしながら、南海のチーム成績は低迷
前期5位、後期6位という結果に終わり、広瀬監督は辞任することとなった
そして、次に就任したのがドン・ブレイザー監督だった
上田氏は「まさか、自分の因縁の相手が監督になるとは思わなかった」と驚きを隠せない様子だったが、その後も関係性は変化していく
彼は「後にブレイザーとアメリカで食事をした際、和解した」と語っており、時間が経てば人間関係も変わるものであることを示している
上田氏の南海移籍からのキャリアは、未知の挑戦と人間関係の変化に富んでいました。彼の経験からは、選手が新しい環境に適応する難しさだけでなく、時間の経過が人間関係を変える可能性も示されています。これは、スポーツ界に限らずさまざまな場面でも重要な教訓となるでしょう。
ネットの反応
コメント欄では、上田二朗さんに対する懐かしさや敬意、また阪神での冷遇についての意見が多く寄せられています
多くの人が、上田さんの人柄を称賛しており、昭和48年にサインをもらった思い出や、彼の振る舞いに感動したエピソードが共有されています
「紳士だった」「器の大きい人」という声が多く、彼のキャラクターが多くのファンに愛されていたことが伺えます
さらに、上田さんと監督の関係や彼が旧南海時代にどう扱われていたかについて、多くの考察がなされています
「実力派ベテランの上田さんを干したのは理解できない」という意見があり、当時のチームの事情やフロントとの情報の行き来の杜撰さが指摘されています
また、粤かに上田さんが監督とソリが合わなかったためにトレードされたことが語られ、古沢憲司さんも同様だったのではという見解も寄せられています
ファンからは、当時の阪神と南海の待遇の違いや、チームの若手を優先して起用した方針についても意見があり、「今もかなりイケオジ」といったコメントが彼の魅力を語ります
このように、上田二朗さんに対するコメントは、彼の素晴らしい人柄や厳しい環境での努力を称える内容が中心となっています
ネットコメントを一部抜粋
私の記憶の中にある最初の背番号16は上田二朗さん。
気難しそうな顔なのに器の大きい人だなぁ。
南海はどん底時代で特に投手が足りなかったのに、何故実力派ベテランの上田さんを干したのか。
人間は許すって事がなかなか出来ないから、一緒に食事できるのは凄いな。
こんな事もあるんだね。監督と何となくソリが合わなくてトレードされた先でもまた同じ監督が来るなんて。。
キーワード解説
- アンダースローとは?:アンダースローは、投手が下から上に向かって投げる投球スタイルのことを指し、特に右利きの投手がこのスタイルを取ることが多い。
- 金銭トレードとは?:選手を他のチームに移籍させる際、選手と引き換えに金銭を受け取る制度を指します。
- D.H.(指名打者)制とは?:パ・リーグで導入されているルールで、投手の打席を他の選手が代わりに打つことができる制度です。

