1985年の航空事故から40年、阪神タイガースの原点を振り返る

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コラム「田所龍一の『虎カルテ』」では、1985年8月12日に発生した日航ジャンボ123便の墜落事故を振り返り、阪神タイガースに与えた影響を考察する

事故では、阪神タイガースの中埜肇球団社長が亡くなるなど、多くの人々の命が奪われた

その日が来るたびに、球団関係者やファンにとって忘れられない一日となっている

当日の状況と選手たちの反応

1985年8月12日、阪神タイガースの選手たちは福岡から東京へ移動し、午後8時20分から神宮室内練習場で練習を行っていた

この日の練習は軽めで、選手たちは勝利の余韻に浸り、夜の街に出かけることを楽しみにしていた

しかし、午後9時半頃、突然流れた緊急ニュースは彼らの状況を一変させた

緊急報道の影響

練習場内のテレビから流れた「羽田空港発、大阪行きの日航123便が墜落した」とのニュースは、選手たちに不安をもたらした

選手たちは「芸能人も乗っている」と話し合いながらバスに乗り込んだが、その中に自分たちの社長の名前があったことに気づくことはなかった

情報の錯綜

その後、選手たちは社長が墜落事故に遭遇したことを知ることなく、夜の街へ出かけた

しかし、報道陣はすでに選手宿舎に集まり、選手たちが帰ってくるのを待っていた

1985年当時は携帯電話も普及しておらず、連絡手段が限られていたため、選手たちの状況は非常に危うかった

選手たちの帰還
午前零時を過ぎても吉田監督や主力選手たちの帰りはなく、彼らは各々の場所でニュースを知って急いで戻ってきた

特に吉田監督は社長の事故の報せを聞いた時に衝撃を受け、すぐに帰宅した

選手たちは本当に社長が亡くなるとは信じがたい思いで、非常に困惑していた

この日を境に阪神タイガースは新たな一歩を踏み出し、優勝を目指すことになる

選手たちの心には社長への感謝と、彼が目指していた強いチームへの意志が刻まれていった

40年の歳月を超えて

現在、あれから40年以上の年月が経過し、阪神タイガースはリーグ優勝を4回、日本一を2回果たしてきた

その間、選手たちの心には中埜社長や吉田監督への想いが生き続けている

天に召された二人に報告できる日を目指し、選手たちは『優勝』を目指し続けている

1985年8月12日の日航123便墜落事故は、阪神タイガースにとって非常に大きな影響を与えた事件であり、球団社長の中埜肇氏が亡くなりました。選手たちはこの出来事をきっかけに、より一層結束しチームとしての使命感を持って優勝を目指すようになったと言えるでしょう。あの日から40年、球団の歴史と共にこの事故の記憶は今も心に刻まれています。
キーワード解説

  • 日航123便とは?日航123便は1985年8月12日に日本航空が運航する旅客機で、群馬県の山中に墜落し、520人が犠牲になった航空事故のことを指します。この事故は世界史上最悪の航空事故とされています。
  • 墜落事故とは?墜落事故とは、航空機が飛行中に地面に衝突する事故のことです。様々な要因が重なり起こることが多く、乗員や搭乗者の安全を脅かす重大な事故です。
  • 阪神タイガースとは?阪神タイガースは日本のプロ野球チームの一つで、兵庫県西宮市に本拠地を置いています。ファンに愛される伝統あるチームで、数々のリーグタイトルや日本一を経験している。

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