長嶋茂雄監督の過去を語る小俣進さん、血気盛んな時代を振り返る

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 長嶋茂雄さんの専属広報を長く務めた小俣進さん(74)は、広島、巨人、ロッテなどにおいて合計13年間の現役生活を送りました

特に長嶋監督の第一次政権時代には、広島から巨人に移籍し、貴重な中継ぎ左腕として1977年のリーグ優勝に大きく貢献しました

その頃、監督としての長嶋さんは40代前半で、選手たちを激しく指導していた姿が印象に残っているといいます

血気盛んな指導スタイル

 長嶋監督は1974年に38歳で現役を引退した後、翌シーズンから巨人の監督としての指揮を始めました

小俣さんが1軍に昇格した際、長嶋監督は40代前半でまだまだ血気盛んな存在でした

小俣さんは、「監督室では初めて呼ばれた時、すごく激しかった」と語ります

厳しい指導の記憶

 小俣さんは、四球(フォアボール)や見逃し三振に対する長嶋監督の厳しい指導を記憶しており、その場面では選手たちが監督室で正座をさせられることもありました

「フォアボールを出すと『なんで勝負しないんだ!』と怒られ、見逃し三振には『なんでバットを振らないんだ!』と言われることが多かった」と振り返ります

怒りをお湯で流す

 このような指導方法は彼にとって非常に厳しいものでしたが、長嶋監督はお風呂に入ることで気持ちを早く切り替えることができたと小俣さんは言います

激しかった彼の指導スタイルは、選手たちに強い緊張感を与えたものの、後にその思い出を楽しむことができたと述べています

冷静に変わった監督像
 指導者としての長嶋監督の直感が鋭かったことも印象に残ったと語る小俣さん

「彼の言葉は的中することが多かった

試合中に『これはフォアボール出して次に打たれるぞ』と喋っていたが、実際そうなったこともあった」と信じて疑わない様子でした

引退後の変化

 現役を引退した後、第二次政権下で専属広報として働くことになった小俣さんは、長嶋監督の冷静さに驚いたと言います

かつては激しい指導とともに過ごしていただけに、彼の変化に感慨深いものを感じたようです

 小俣進さんは、1951年8月18日生まれで、神奈川県出身

藤沢商(現藤沢翔陵)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て、1972年のドラフト5位で広島に入団しました

巨人で中継ぎとして活躍した彼は、ロッテ時代に初完投・完封勝利を達成しました

通算成績は174試合登板、16勝18敗、2セーブ、防御率4.73です

引退後にはロッテ、巨人の打撃投手を経て、長嶋監督の専属広報や名誉監督付き総務部主任を務めました

今回の記事では、小俣進さんが長嶋茂雄監督との思い出を語っている内容が印象的でした。特に監督が血気盛んな時代に、選手たちに厳しく接しながらも、引退後の冷静さに驚かされたことが心に残ります。これらのエピソードは、指導者としての成長の過程を物語っているように感じられました。
キーワード解説

  • 中継ぎとは?野球において、中継ぎ(ちゅうけいぎ)は先発投手が投げ終えた後にマウンドに上がる投手を指します。彼らの役割は、試合の中盤や後半に投げることが一般的です。
  • フォアボールとは?フォアボールは、打者が4球のボールを受けた場合に、無条件で一塁に進むことを指します。これは、投手がストライクを投げられずに、打者に歩かせてしまうことを意味します。
  • 見逃し三振とは?見逃し三振は、打者がボールがストライクゾーンに入るのを認識しながらバットを振らずに三振することを意味します。これを避けることは打者にとって非常に重要です。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。