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江夏豊、40年前の不思議な引退試合を振り返る

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1985年1月19日、多摩市営一本杉球場で行われた「江夏豊たった一人の引退式」は、当時36歳の大投手・江夏豊がプロ野球を去る際、どの球団からも見送られなかったという不思議な試合でした

今回は、40年前のこの出来事の真相を探ります

江夏豊の背景とキャリア

江夏豊は1948年に生まれ、大阪学院大学高等学校を経て阪神タイガースに入団しました

彼は「奪三振日本記録」や「オールスターゲーム9連続奪三振」といった数々の記録を打ち立て、特に先発投手として知られていました

しかし、1975年に南海ホークスに移籍し、野村克也監督の勧めで救援投手に転向します

この「先発→救援」という分業制の確立は、野球界に「革命」をもたらしました

多摩市営一本杉球場での引退式の奇妙さ

江夏の引退試合は、彼の本拠地となる甲子園や後楽園ではなく、無縁の市営球場で行われました

しかも、試合は出版社文藝春秋の主催で行われ、その意図も気になるところです

通常、引退試合は現役時代を過ごした球団が主催しますが、この場合はそれが実現しなかったためです

江夏の転機と江夏争奪戦

1983年秋、江夏は日ハムのリリーフエースとして活躍し、31セーブポイントを記録しましたが、シーズン終盤、最大の理解者であった監督・大沢啓二の退任が決まります

江夏は、大沢の退任により日ハムに残る意味がないと感じ、江夏放出が決定

これにより「江夏争奪戦」が勃発しました

1985年に行われた江夏豊の引退試合は、スポーツ界でも特異な出来事といえるでしょう。江夏が球団から見送られることなく引退を迎えるというのは、プロ野球の歴史の中でも稀なケースです。彼のキャリアの転機や背景を振り返ると、様々な要因が絡み合っていたことがわかります。
ネットの反応

コメントでは主に、江夏豊選手が巨人入りを果たさずに西武へ移籍した理由や、その影響についての考察が行われています

例えば、江夏選手がメジャーに挑戦した後の華々しい引退から、当時の西武での活躍やトレードの背景にまで言及されています

また、江夏選手の投球スタイルや当時の監督との関係についてもコメントがあり、特に広岡監督との相性に関する意見が目立ちました

「難しいのは個人的に好きな監督だからといって優れた監督とは限らない」という意見が印象的で、江夏選手自身の成熟した視点を反映しています

また、トレードでの選手評価についても多くの視点があり、交換相手の柴田選手が与えた影響や、その後の西武のチーム構成についても触れられています

最終的には、江夏選手が巨人に加入していた場合の成績やキャリアに関する仮定も語られ、「江夏選手がNPB初の200勝200セーブを達成できた可能性」についての意見が見受けられました

全体として、江夏選手への期待と選手としての難しさをあわせて考える内容が多く、40年前の出来事を振り返る良い機会となっているようです

ネットコメントを一部抜粋

  • 個人的には稲尾ロッテでの江夏が見てみたかったなー。
  • でもやっぱり最後メジャーに挑戦してレジー・ジャクソンに真っ向勝負を挑んで華々しく散って良かったように思う。
  • くたばれ管理野球、という江夏さんが書いた本を読んだけど、広岡さんの事を非難する為の本だったような気がする。
  • 江夏氏いわく「難しいのは個人的に好きな監督だからといって優れた監督とは限らないことがある。」と語っていましたね。
  • あの頃の巨人はリーダー格の中畑さんが30歳。投打の主力が20代後半の若いチームでした。
キーワード解説

  • 江夏豊とは?プロ野球選手で、リリーフ転向により球界に新しい形をもたらした大投手。
  • リリーフとは?試合途中で登板する投手で、主にピッチャーの交代後に投球する役割を持つ。
  • 奪三振とは?投手が打者に対してストライク三つを投げてアウトにすること。

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